「成長がなければ、企業は生き残れない」とはどういう意味か?
この記事の中で、田原総一朗氏は、以下のように述べた:
成長がなければ、企業は生き残れない
僕は、違うと思う。成長しない企業は、この社会では成立しないからだ。かつての高度成長とまではいかなくとも、成長は必要だ。・・・
これは、下記のように朝日新聞に掲載された記事に対する意見だ。
1月4日付の朝日新聞朝刊に「経済成長は永遠なのか『この200年、むしろ例外』」 という記事があった。この20年間、ゼロ成長であっても、僕たちの豊かさは変わっていないではないか、という内容だ。
実際どうなのだろう?経済成長は必須なのだろうか?
市場資本主義から協働型コモンズへの一大パラダイムシフト?
ここでは別の観点から考えてみたい。
限界費用ゼロ社会―<モノのインターネット>と共有型経済の台頭
- 作者: ジェレミー・リフキン,柴田裕之
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2015/10/27
- メディア: 単行本
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限界費用ゼロ社会の中で、リフキン氏は、
「市場資本主義から、協働型コモンズで展開される共有型経済へのパラダイムシフトが起きている」
と述べている。
市場資本主義で競争が働くことで、ユーザーがサービスを利用する際に増えるコストがゼロに近づくことで資本主義が成立しなくなり、そのような、サービスがほぼ無料になる社会を構成するのに最もふさわしい新しい経済のひな型として、協働型コモンズが台頭する、としている。
限界費用がゼロとなる社会では、市場資本主義の枠組みで考えると企業が売り上げを増やせない、すなわち、経済成長がない、さらには、縮小する社会を意味しているように思う。
一方で、共有型経済では、経済成長がなく、収入が増えないもしくは減少する社会において、人々が持つモノを共有することで必要なサービスを手に入れる社会を意味しているように思う。
市場資本主義と共有型経済の関係はいかに?
書籍「限界費用ゼロ社会」を読み切れていないのだが、リフキン氏は、市場資本主義と共有型経済の関係を具体的に論じていないと思った。
私が考えたことは間違っているかも知れないが、
新たにサービスが開発されるためにはそこには市場資本主義がおそらく必要であり、競争によりその限界費用が一定程度低減したところで、そのサービスが共有型経済の中でシェアされるのではないか、と考えた。
市場資本主義が、協働型コモンズに完全に移行してしまった社会では、新しいサービスは出現しない。これは「限界費用ゼロ社会」にも記載されていたと思う。
ひるがえって、成長は必要か?
田原総一朗氏が述べた、
「企業が生き残るために成長が必要だ」
という言葉の意味として、上記から、
「ニーズに対応した新しいサービスが開発されるためには市場資本主義が必要で、そこでは必然的に成長が無ければならない」
という解釈ができるのではないだろうか。
資本主義の限界、共有型経済、については、今後も考えていきたい。