親に行動を促すことの大事さ
下記ブログを読んだら、面白いことが書いてありました:
それはこんな文章です:
ライブカメラで見ていると、1人暮らしの母の生活は結構気まま。好きなときに起きて好きなときに寝る。食事もおやつも食べたい時間に食べたいものを食べている。ただし、そんな「気まま」生活に物忘れが加わると、様々なことが1人でこなせなくなってきた。なので、朝7時のモーニングコールから始まって、「そろそろ○○したほうがいいんじゃない?」「隣の公民館で○○が始まるよ」という感じで、何かと筆者が電話を掛けて促す日々をもう3年ぐらい続けてきている。
ここに何気なく書かれていることを抜き出します:
「そろそろ○○したほうがいいんじゃない?」「隣の公民館で○○が始まるよ」という感じで、何かと筆者が電話を掛けて促す
ここです。
このように、高齢者に対して言葉で促すことは実はとても重要なことなのです。
このことを皆さんに伝えたいと思いました。
「成長がなければ、企業は生き残れない」とはどういう意味か?
この記事の中で、田原総一朗氏は、以下のように述べた:
成長がなければ、企業は生き残れない
僕は、違うと思う。成長しない企業は、この社会では成立しないからだ。かつての高度成長とまではいかなくとも、成長は必要だ。・・・
これは、下記のように朝日新聞に掲載された記事に対する意見だ。
1月4日付の朝日新聞朝刊に「経済成長は永遠なのか『この200年、むしろ例外』」 という記事があった。この20年間、ゼロ成長であっても、僕たちの豊かさは変わっていないではないか、という内容だ。
実際どうなのだろう?経済成長は必須なのだろうか?
市場資本主義から協働型コモンズへの一大パラダイムシフト?
ここでは別の観点から考えてみたい。
限界費用ゼロ社会―<モノのインターネット>と共有型経済の台頭
- 作者: ジェレミー・リフキン,柴田裕之
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2015/10/27
- メディア: 単行本
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限界費用ゼロ社会の中で、リフキン氏は、
「市場資本主義から、協働型コモンズで展開される共有型経済へのパラダイムシフトが起きている」
と述べている。
市場資本主義で競争が働くことで、ユーザーがサービスを利用する際に増えるコストがゼロに近づくことで資本主義が成立しなくなり、そのような、サービスがほぼ無料になる社会を構成するのに最もふさわしい新しい経済のひな型として、協働型コモンズが台頭する、としている。
限界費用がゼロとなる社会では、市場資本主義の枠組みで考えると企業が売り上げを増やせない、すなわち、経済成長がない、さらには、縮小する社会を意味しているように思う。
一方で、共有型経済では、経済成長がなく、収入が増えないもしくは減少する社会において、人々が持つモノを共有することで必要なサービスを手に入れる社会を意味しているように思う。
市場資本主義と共有型経済の関係はいかに?
書籍「限界費用ゼロ社会」を読み切れていないのだが、リフキン氏は、市場資本主義と共有型経済の関係を具体的に論じていないと思った。
私が考えたことは間違っているかも知れないが、
新たにサービスが開発されるためにはそこには市場資本主義がおそらく必要であり、競争によりその限界費用が一定程度低減したところで、そのサービスが共有型経済の中でシェアされるのではないか、と考えた。
市場資本主義が、協働型コモンズに完全に移行してしまった社会では、新しいサービスは出現しない。これは「限界費用ゼロ社会」にも記載されていたと思う。
ひるがえって、成長は必要か?
田原総一朗氏が述べた、
「企業が生き残るために成長が必要だ」
という言葉の意味として、上記から、
「ニーズに対応した新しいサービスが開発されるためには市場資本主義が必要で、そこでは必然的に成長が無ければならない」
という解釈ができるのではないだろうか。
資本主義の限界、共有型経済、については、今後も考えていきたい。
高齢者は75歳から 65歳は「准」90歳は「超」 から考える
高齢者は75歳から。
これで良いのではないだろうか。
自分は75歳まで働くつもりである。 元気であれば。
なので、会社の中で頑張って56歳で役職定年を迎えることは望まない。
できる限り会社の外で、社外の様々な人と仕事がしたい。
自分の業績が外から見えるようになりたいし、自分の仕事が社会にできる限り関わるようにしたい。
そうすれば、会社を定年退職したのちも、75歳まで働き続けることができると思っている。
物忘れを考える
物忘れがある高齢者であっても、家族が一緒に暮らしていれば、家族が親に対して声がけを行うことで、家で生活を続けることが可能だろう。老いた親が子や孫と同居することが多かった時代はそうであったと考えられる。
一人暮らし高齢者世帯または老夫婦世帯に対して、物忘れや面倒に感じてやるべきことをやらない状況を回避するために、どのような方法を取りうるだろうか。子や孫が共に暮らして老親を助けるのと同様なことを、別の方法でどのように行うことができるだろうか。
やるべきことをやらない状況を回避する方法として下記の方法が考えられる:
1)毎日のやるべきことのリストを作成する
2)やるべき事柄を一日の中でいつ行うかを決める
3)やるべきことを行う
4)行ったことを記録に残す
※ただし、決めた時間に行うことができない場合には、予定を組み直すことも行う。
実際、物忘れが高じる以前においては、上記の1)2)4)は、人が自らの頭の中だけで行っていることは自明であろう。
一方、物忘れが徐々に目立ってきたときに、人はどのようにしているだろうか?
現実の高齢者の生活の様子を見ると、物忘れが徐々に高じるにつれ、カレンダーにその日にやるべきことや予定を書き込む(これは1)に相当する)ようになるのが普通である。
さらに、行ったこと自体を忘れやすい事柄については、行った後に記した事柄を横線で消したりする(これは4)に相当する)ようになる。
また、予定が複数ある場合には、それらの各々をいつ行うかまで考えて予定を作成するであろう(これは2)に相当する)。
このように、物忘れがまだひどくない場合には、毎日の予定ややるべきことの表またはリストを作成して確認しつつ実行し、実行後にチェックする、という生活上の工夫を行うことで、物忘れが現れるようになっても、支障が無い生活を送ることはある程度可能である。
しかしながら、より物忘れが進行するにつれて、
・カレンダーに予定を書くことを忘れてしまう
・間違った日に予定を書いてしまう
・カレンダーを見て予定を確認することを忘れてしまう
・カレンダーを見て予定を確認しても実際に行うことを忘れてしまう
・書き込んだ予定が読めずさらにその予定が何であったかを思い出すことができない
などの事象が増えてくる。
(おそらく続く)
イノベーションはニーズから生まれない?
この記事に書かれていたことですが、
何にうんざりしたかと言えば「イノヴェイションはニーズから生まれる」というちょっと頭を使えばデタラメだとわかりそうな俗信を(日本が誇るべきはずの研究所のお偉いさんが、よもや)信じていること(ちなみに言っておくと「イノヴェイションは勇気から生まれる」というのがぼくらの見解だ)。そして「市場に信任されるものはいいものである」という、これまた、科学をやって来た人ならその嘘がすぐにでも見抜けそうな戯言を、これまた疑おうともせず信じていることである。
イノベーションがニーズから生まれることもあると思うのですが、違うのでしょうか?
もしかしたら例が間違っているかも知れませんが、
「自撮り棒」というイノベーションは、ニーズから生まれたと思っていました。
でも、ニーズだけではだめで、”勇気”も必要だろうとは思います。
最初に作った人は、使うときにかなり勇気が必要だったと思いますので。
日本の科学界ですが、おそらくいまは国の予算が厳しいので、”世の中の役に立つ”研究に対して、優先的に研究補助金を配分していると思います。
「それが、ニーズに基づく研究を行ってイノベーションを生み出す必要がある」
という言葉になってしまうのだろうと思います。
ただ、勇気が必要だ、という主張は、考えるうちに徐々にわかってきた気がします。
「これからの正義の話をしよう」マイケル・サンデルを読んで
「自己決定権を尊重せずに介護を語るな」を読んで
を読んでちょっと考えてしまいました。
本人の観点、家族まで含めた観点、社会まで含めた観点、
一方では、
自立の観点、幸福(経済性)の観点、道義的道徳的観点、自由の観点、
なの縦横様々な観点がありますから、そうだ、とも、そうではない、とも言い切れません。
仕事でも、はたから見るとブラックな働き方に見えていたとしても、本人がワクワクした気持ちでやりたいことをやっているのであれば、単純にブラックと断じることができないのと同じだと思います。
少なくとも、本人の希望の他に、それに直接的に対峙する家族の受け止めがあると思います。
介護離職した場合に経済的に生活が成り立つかどうかだけでなく、それを家族が受け入れられるかどうか、という介護する家族側の自己決定権もあるわけですので、やはり一概にこうだ、とは言えないですよね。
皆さんはいかがお考えでしょうか?